その時は本気で反省してるつもりなのだけれど、後で考えてみると、責められることから逃げるために反省「しようとしていた」、ということが私には多々あるように思う。
何か釈然としないものがあるが、畳み掛けるように怒鳴られ、悔い改めろ、謝罪しろと迫られると「自分が今感じている悶々としたものは、きっと筋違いの身勝手なものなのだ、現に言葉で説明できないでいるし」と思い、謝罪や反省を試みる。ということがあったと思う。
そういう場合は結局、「言っていることはもっともだけれど、その人自身にそんなこと言う権利があるのか」という部分で心にしこりが残っていたように思う。
でも、「それとこれとは別問題だ」と大声で言われると「そ、そうなの?私は分からないけど、きっとそうなんだろうなあ」と思い、「大変申し訳ありませんでした」と土下座する。
そんな感じだった。
そういう経験が私を成長させた、とは思わない。
心にしこりが残る方法で怒られても、無意識のうちに反発してしまって、もっとめちゃくちゃな行動をとってしまう。
しかも自分でも反省しよう、と思い込んでいるから、「なんでこうできないんだろう?」と自分を責めてみる、ということの繰り返しだったように思う。
時間の無駄だ(単に私の理性が弱い、ということかもしれないけれど)。
その点、会社での罵倒(……)は、有意義だったと思う。
罵倒、というやり方はいやだけれど。

私は、物語を読むときにも、そういうものに支配されている気がする。「〜せねば」。みたいな。
なにか強大なものを恐れながら読んでいる気がする。
ドMといってしまえればよいのだけれど。
本当にくだらないし目が曇っているのだろう、と思う。

しかし、心にしこりがあるなら、そこで自分に負けずに徹底的に言い争って、そこで本当の自分の誤りや醜さを見つけて心から反省するべき、または本当に、自分自身が注意されていることを「もっともだ」と理解し心から反省していれば、そんな「その人にそんなことを〜」というあげあし取りのような考えは浮かばない、自分の至らなさを見ろ、という「天の声」が聞こえてくる。
わーやだ。
そんなに皆さんは素晴らしいんだろうか。
私が勝手に恐れているのかもしれないけれど。
なんかこういうのにうんざりしてきた。

私は 幼稚だ!

コメント

nophoto
ササキ
2007年3月26日16:36

今日の記事は本当に大好き。あなたは僕にとって凄く魅力的な人なんです。

よしだ
よしだ
2007年3月28日2:23

読み返して恥ずかしくて頭を抱えてしまったのですが、楽しんでくれた方が一人でもいらっしゃるならよかったです。
いつも暖かいお言葉、ありがとうございます。
元気になります。

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